「多様な民意に目を向けよ」悔しいのう、悔しいのう、朝日いいがかり社説を批評(1)

自公連立与党が議席の2/3を占めた総選挙の翌日2017/10/23、朝日は『政権継続という審判 多様な民意に目を向けよ』(http://www.asahi.com/articles/DA3S13193375.html)と題する社説を掲載した。要約らしきものは

衆院選は自民、公明の与党が過半数を大きく超えた。有権者は安倍首相の続投を選んだ。」

と健全なのだが、本文は捻じ曲がっている。

 

本文の1行めは

 

「森友・加計問題への追及をかわす大義なき解散――。みずから仕掛けた「権力ゲーム」に、首相は勝った。」

 

北朝鮮の脅威に朝日は目を瞑り、今回の総選挙に「権力ゲーム」というレッテル貼りをして矮小化する。これでは、朝日の紙面は良くならない。森友・加計問題は朝日がでっち上げた虚構であることは、(朝日が総理に嘘をついてまで隠したい加戸証言と同様に)真実である。

 

 

タイトルの中の「多様な民意に目を向けよ」を検討してみよう。

 

ちょっとおとぎ話を。

<土手のお花>

川の土手に旭ちゃんが大切にしているお花がありました。おじさんたちとおばさんたちがそこに来て土を盛ろうとしています。大切なお花が潰されてしまいます。旭ちゃんは泣き出しました。旭ちゃんを可哀想に思ったおじさんたちとおばさんたちは帰りました。次の日も同じでした。

一週間後の夜、台風が来て土手が決壊し旭ちゃんとお隣の都ちゃんはお星様になりました。雨で旭ちゃんと都ちゃんがなったお星様は見えませんでしたが。

 

バリエーション1

泣き出した旭ちゃんを見ておじさんたちとおばさんたちは「盛った土の上にお花を移してあげる」とアウフヘーベンしました。でも、旭ちゃんは「お花の高さが変わるとお山のネックレスには見えない」とイヤイヤをしました。(結末は同じ)

 

<教室のお勉強>

先生がお勉強を始めようとしています。駄々っ子の旭ちゃんはお友達の都ちゃんと遊んでいます。もっと「遊びたいよー」とダダを二人でこねます。仕方がなく、先生は5分待ちました。また、先生がお勉強を始めようとしましたが、また、旭ちゃんはダダをこねました。これが、3回繰り返された後、教室の他の18人のお友達は「そろそろ勉強しなければヤバクね?」と考え始めました。4回目、5回目も旭ちゃんと都ちゃんはダダをこね続けました。とうとう授業の時間は終わってしまいました。他の18人のお友達は先生に教えてもらえなくて悲しくなりました。

 

朝日が言うように多用は大事だ。だが、多様を大事にしすぎると物事は進まないし、被害を受けることもある。結果的に少数の意見が実質的に多数を支配することになる。つまり、少数支配で、これは民主主義とは言えない。

 

タイトルに朝日は

「多様な民意に目を向けよ」

と政権に対し命令形を使っている。朝日にとり、多様は重要なのだ。

だが小見出し『■選挙結果と違う世論』には

与党との一対一の対決構図をめざして模索してきた野党共闘も白紙にされた。

とある。

 

文末の「された」は文法的には受け身形である。特に昔の日本語では受け身形は被害を受けた時に使われる。例えば「足を踏まれた」「雨に降られて遠足は中止になった」のような用例を思い出そう。これを「被害の受け身」と言う。朝日は野党共闘が白紙になったことを被害だと考えている。ということは野党共闘は、朝日にとり、価値あることなのだ。

 

ここで、朝日が重要視している多様を思い出そう。

野党は複数存在している。党が別なのだから、違いがあるはずである。まさか志位「主席」の足が臭いと嫌がる人々が集まって民進党や社民党ができているわけではあるまい。

即ち、野党間は多様なのだ。なのに、朝日は、野党共闘しろ、政党の多様性を捨てよと言っている。

 

一方で多様性を大切にしろ、他方で多様性を捨てよと言っているのだが、これは、矛盾している。または、ご都合主義だ。