コカイン ピエール瀧 社会的制裁にみる古谷経衡氏の考え違い

古谷経衡氏がピエール瀧被告(51)への社会的制裁について『ピエール瀧の“社会的抹殺”のされ方は異常だ/古谷経衡』(2019/03/31)(https://nikkan-spa.jp/1562618)を書いた。

この中に気になる箇所がある。

 

<日本の司法制度では裁判所で有罪が確定しない限り、容疑者は一貫して推定無罪として扱われるが、起訴すらされていない段階で瀧の社会的生命のすべては根こそぎはく奪された。>

と古谷氏は書く。そして、見出し『いつから道徳、倫理が法よりも優先されるのか』の下に

<瀧は何の法的根拠もなく、単に「放送界の自主的な規制」という何ら根拠のない「道徳的裁量」でもって社会から抹消された。>

と指弾する。

 

ここに古谷氏の間違いがある。

 

昔々、レイプの指南書に、レイプする前にハンカチを尻の下に敷かせろ、というアドバイスがあった。ハンカチを敷くと当時の法的常識では和姦となったからだ。人は指南書通りにして無罪になったレイプ犯を忌み嫌い避ける。有罪となり、刑期が明けた人も同様だ。法律より道徳倫理が優先するのだ。古谷氏におかれても無罪を奪取したレイプ犯と親密関係にあるとは思われたくないだろう。

最近、近親相姦を犯した父親が無罪となった。上告しても父親は近親相姦では罪に問われない。近親相姦罪は刑法に無いからだ。古谷氏はさておき、普通の人は父親を避ける。

 

道徳や倫理で国民の大多数が合意できる厳しさのレベルが法律となる。結果としてそのレベルは決して高いものではない。古谷氏は道徳や倫理は法律より甘くあるべきと間違えている。ついでに言えば、裁判所も社会的制裁を情状酌量してくれる。つまり、裁判所も道徳と倫理から生じる社会的制裁を正当なものと見ている。

 

刑法にセクハラ罪という罪は無いが、福田前財務省事務次官は社会的制裁を受けた。最初に道徳と倫理があり、そのあとに法律がある。法律が去った後にも道徳と倫理は残るのだ。

古谷氏が好きそうな言い回しを使うと、下部構造であると道徳と倫理が上位意構造である法律を決定し、その逆ではない。

 

この件の告発者は、夜更けに呼び出された時パシャマ姿で男に会いに行ったと告白したテレビ朝日の進優子色仕掛け師。いかがわしい告発だったが、これに言及していない以上、古谷氏も福田前事務次官への道徳と倫理による社会的制裁を是としているように見える。

 

次に社会的制裁発動のタイミングを見てみる。

 

日本の司法は有能だと言われている。逆に言えば有罪にできるものしか逮捕しない。逮捕された時点でほぼ有罪確定なのだから、逮捕された者の関係者はリスク管理をしなければならない。ピエール瀧被告(51)は容疑を認めていると報道された。また、証拠品も押収されている。となれば、放送局などが予防措置として社会的制裁を発動しても当然だ。

ピエール瀧被告の事件が発覚して被告のソフトの売り上げ増も観測されたようだ。犯罪を宣伝に利用したと糾弾されることは音楽業界も不本意だろう。これまた、社会的制裁発動を支持する。

仮に、その後の調査で被告が暴力団の一員だと分かったとしよう。音楽業界としたら、被告と密接交際の関係にあると判断されたくないだろう。

 

薬物使用犯には、これまでも、社会的制裁は発動されてきた。放送局はそのリスクを承知している。ならばキャスティングに十分な注意を払うべきなのだ。ピエール瀧被告については放送局などはギャンブルに負けただけ。

コカインは別なのかもしれないが、薬物犯は再犯率が高い。放送局などはそれも承知していることだろう。放送局はおぼこではないのだ。

 

古谷氏は

<起訴以前の段階で人ひとりを社会から消し去る行為は、道徳でも倫理でもなく単なる全体主義社会>でまるで北朝鮮と同じだと言う。

 

北朝鮮では金正恩大首領様の命令か特異なイデオロギーに基づく法律で<人ひとりを社会から消し去>るが、

日本では、国民の道徳観や倫理観を基礎にして、且つ、国民の合意を得て制定された法律に基づき罰し、国民の道徳観や倫理観からして忌まわしい人を個人の判断で避けるだけだ。

古谷氏は結果が同じだから原因も同じとしてしまう間違いを犯している。

ところで。

最近、起訴どころか逮捕すらされていないのに社会的制裁が発動され、抹殺どころか存在しなかったことにされた輩がいる。広河隆一性加害被嫌疑者(75)だ。

何故、古谷氏は一層厳しい制裁を受けた広河隆一性加害被嫌疑者ではなくピエール瀧被告を例として使ったのだろう?

また、先に書いた福田前事務次官について古谷氏は『いつから道徳、倫理が法よりも優先されるのか』と声を上げなかったのか??