保阪正康の「エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです」への疑問

元朝日新聞が佐藤章が捏造ぽいtweetをした。彼の父親から聞いた話という触れ込みなのだが、父親が嘘をついたのか佐藤がでっち上げを書いた疑惑が深まった。(疑惑の指摘は以下 https://togetter.com/li/1339286)

佐藤への追求に添付されていたのが保阪正康の『特攻70年

「特攻は日本の恥部、美化は怖い」 保阪正康ご老体(79)さんインタビュー』(2014/10/24)(http://mainichi.jp/articles/20141024/mog/00m/040/003000c)。

(https://books.google.co.jp/books?id=zFoxDwAAQBAJ&pg=PA48&lpg=PA48&dq=特攻は日本の恥部、美化は怖い&source=bl&ots=IaogLFCGOJ&sig=ACfU3U2bYsOc6gkutT8Ldsr59QKWClWZ0w&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwijmvHvyITiAhWtJaYKHa2eBfcQ6AEwB3oECAkQAQ#v=onepage&q=特攻は日本の恥部、美化は怖い&f=false)

批判の一部は先に書いた。本編は続きである。

 

保阪は次のように書く。

(陸大出身の元参謀の)<同期50人ほどのうち、戦死は4人だけだったそうです。エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです。>

些細な点を指摘する。<戦死は4人だけ>だそうだが、戦病死は?

 

本稿では保阪が言うところのエリートの戦死率が低いことには真っ当な理由があることと、

それでもやっぱり、エリートも戦死され、また、責任もとっていることを示す。

 

50人中戦死4人でも戦死率は8%になる。私の感覚としては低くない戦死率だ。時間軸が違うので妥当な比較ではないと予め断っておく。8%の戦死者が出るなら負傷者はその数倍。戦闘不能者が30%になれば部隊は壊滅とみなされるのだ。

 

大東亜戦争間の軍人の数を見積もる。

第8表 陸海軍現役軍人数の推移
(単位 千人)
年末現在 総数 陸軍 海軍
1930年
1937年
1941年
1942年
1943年
1944年
1945年 1)
250
634
2,411
2,829
3,808
5,365
7,193
200
500
2,100
2,400
3,100
4,100
5,500
50
134
311
429
708
1,265
1,693

〔備考〕1)1945年8月現在数。
2)陸・海軍省調べ,労働省編「第二次大
戦中の日本における労働統計」による。

(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/table/036-8.html)

1942年から1945年の総数の合計は19195千人、約1920万人となる。

軍属も含めた戦没者は約230万人。戦没率は12%。

12%は8%より随分大きいと感じるかもしれない。だが、士官の役割を考えてみればその感じも変わる。士官は指指揮統制をするか、指揮官の補佐をする。

生産計画が作れず、作ったとしても人員資材の配置ができない工場はどうなるだろう?

中小企業の社員の死と社長の死の影響、どちらが大きいだろう?

保阪は学生運動を見てきたと思う。学生群が警官隊に勝てなかった理由を保阪は考えたことがあるのだろうか。装備の違いもあるが、指揮統制が無かったこともその理由の一つだ。指揮統制があれば東峰十字路事件のように学生群が機動隊を翻弄するケースもあった。

戦死者が多く出るのは敗走のとき。指揮官が機能しなくなったときだ。敗走でも指揮官が機能していれば壊滅はしない。関ヶ原の島津軍撤退戦がその例だ。もっとも、島津軍の場合、壊滅した方が生者は多かったかもしれないが。

狙撃兵は士官を狙う。このことからも士官の価値が分かる。

軍にとっても、兵にとっても士官には価値がある。価値があるものは守られるのだ。

陸士の教育は3年10ヶ月。その間に6ヶ月の隊付き勤務がある。陸軍では徴兵されると2年間兵役に就く(戦況が悪くなって期間はのびた)。じっくり金をかけて教育した士官を大切にするのは当然だと思う。保阪の年齢からすると万年筆を使ったと思う。蒔絵の万年筆と鉛筆、保阪はどちらを大切にしたろう。

保阪の発言は「狙撃兵は士官を狙う」を知らないように見える。

 

保阪は特攻をテーマにしている。もしかしたら、保阪はアメリカ陸海軍(特に航空戦力)の士官の戦死率が念頭にあるのかもしれない。一言注意しておくとアメリカ軍のパイロットは全て士官だ。

 

保阪は<エリートは前線に行かず、戦争を美化するんです>と言う。エリートとは陸大卒業者のことだろう。だが陸大出身者は高文を通った文官のエリートとは違う。(東京)帝大を出て高文を通れば現場の仕事をほとんど経験することなく出世した。高文を通っていない官僚との競争は無かった。

陸大に入るには条件がある。陸士を卒業していること。少尉になってからの部隊経験が2年以上あること。少尉か中尉であること。(このため陸大同期に陸士4期が同時に居ることもあり得た)。部隊長の推薦があること。

大尉になってしまうと陸大へは進めない。陸大へ進めなかった大尉は将官になれなかったか?大将は無理かもしれないが中将にはなれた。

 

だが、陸大を出ても最初は精々大尉。安全な後方で安穏とはしていられない。

 

保阪の記述に<同期50人ほど>とある。陸大54期(昭和13年12月27日入学)は73名で最後の60期まで50名より多い(https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍大学校卒業生一覧#60期_(昭和20年卒))。

よって保阪の文に出てくる元陸軍参謀は陸大53期(昭和13年6月11日入学、昭和15年6月17日卒業、49名)以前の期である。これより前の期なら戦死者はもっと少ないだろうし、後の期なら戦死者はもっと多い。

 

<エリートは前線に行か>かないと保阪は言うが、陸大出身者も戦死というか自決している。Wikipedia「陸軍大将」(https://ja.wikipedia.org/wiki/陸軍大将#大日本帝国軍陸軍大将一覧)のリストを下から上へ見ていくと、

硫黄島栗林忠道中将(35期)(階級は戦死時のもの)、沖縄の牛島満大将(28期)、陸軍大臣阿南惟幾大将(30期)。

特攻を指揮された士官で終戦前後に自決された方々も少なくない。

靖国神社で戦死者扱いされている方々に東條英機大将(27期)、板垣征四郎大将(28期)、土肥原賢二大将(24期)他が見つかる。

 

日本は敗戦した。当然、敗戦責任を問う軍法会議が開かれるべきだった。もし、軍法会議が開かれれば、東條大将は死刑判決か相当の可能性が高い。将官の責任が問われなかった理由は甘やかしではなく、連合軍の施策の結果なのだ。この点でも保阪は間違っている。