典拠で示す佐藤浩市の悪意『空母いぶき』と『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』
かわぐちかいじの漫画『空母いぶき』が映画化された。
首相役の佐藤浩市がインタビューで
<いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残ってるんですね。>
<彼はストレスに弱くて、すぐにおなかを下してしまうっていう設定にしてもらったんです。だからトイレのシーンでは個室から出てきます。>
と答えて炎上した。(https://togetter.com/li/1354747)
かわぐちの『沈黙の艦隊』は途中まで読んだが、かわぐちの
・キャラクターデザイン
・絵のタッチ
・設定・構想
・世界観
に不満が出てかわぐちの作品は読まなくなった。
映画『空母いぶき』も当然見ていない。以下の論考は予告編と報道に基づく。
映画化にあたって改変が行われた。
・支那が謎の国に
・ネットニューススタッフを導入。
侵攻国を支那から変えたためにリアリティが失われた。監督若松節朗のセンスが分かる。
ネットニューススタッフり導入は女の子を出すためだろう。予告編を見る限り、正義ぶって(?)隊員と揉めたり詰め寄ったりテレビクルーと変わりが無い。若松のセンスが分かる。
攻撃を受けた後(かな?)のセリフ
「創設以来一人も戦闘で死者を出したことがないのが我々自衛隊の誇りだったはずだ」
「日本(にっぽん)は絶対に戦争はしないという国民との約束です」(佐藤総理?のセリフ)
のバカバカしさとレベルの低さは若松のレベルと直結する。ゴジラが現れたならともかく、支那が離党を占拠するぐらい想定済みだろう。北朝鮮から核ミサイルが飛んでくるかもしれない現在、閣議を開いて決定などしている暇は無い。
安保法制の議論でも攻撃されたら撃ち返す姿勢は容認された。それなのに
「創設以来一人も戦闘で死者を出したことがないのが我々自衛隊の誇りだったはずだ」
とは。
ゴール間近に来たのに、スタート地点より大幅に下がったところから議論をやり直す。それが若松の方法論なのか。
こんな低レベルのやり取りを流すなら、想定を立憲民主党が政権を取った時、枝野幸男首相と変えてくれ>若松。
現実には竹島という例がある。2018の富士総合火力演習では離党奪還を想定した展示が行われた。佐世保の相浦駐屯地に編成(へんなり)された水陸機動団、同団に配備された水陸両用強襲輸送車AAV7を見れば、支那の侵略への対応行動はすでに策定されていると考えるのが妥当だ。若松のレベルが分かる。
監督/チームのセンスの無さレベルの低さには呆れるしかない。彼らは国民のレベルを低く見過ぎている。
また、海外市場では「戦争しない我が国」など理解されまい。
佐藤浩市に移る。
嘔吐と違ってて下痢は笑いの対象だ。カミュの『ペスト』に対抗した筒井康隆の『コレラ』は、少なくとも、笑いと、筒井が言うように、音響で傑作とされている『ペスト』に優る。
元号「令和」が発表された時、典籍を求めて漢籍に辿り着いた研究が並んだ。
では、佐藤の下痢の典籍を見つけよう。
『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』(監督:河崎実 配給:トルネード・フィルム 2008)だ。
『宇宙大怪獣ギララ』( 監督脚本:二本松嘉瑞松竹 1967)のギララとビートたけしが出てくる映画だ。特撮のレベルは低い。ギララに対抗するのはビートたけしをかたどったと思しきコマネチ姿の像。それを古来から崇める集団がいる。場所が洞爺湖なので彼らはアイヌたど思われるのだがアイヌらしくない。現存のアイヌ団体同様胡散臭い。
『ギララの逆襲』で伊部三蔵首相(福本ヒデ)はトイレに駆け込んで観客を呆れさせる。なお福本ヒデは声帯模写もしている。河崎や福本の言い訳は、当時潰瘍性大腸炎の知識が不足していた、だろう。だが、佐藤同様、彼らも体制側を嫌っていた、が本当だろう。
佐藤浩市にしろ若松節朗にしろ映画については教養溢れると思う。だから、『ギララの逆襲 洞爺湖サミット危機一発』を二人とも知っていた。
佐藤が首相に下痢させたいという提案をしたとき、若松も『ギララの逆襲』を思い出し賛同したのだろう。
『空母いぶき』の想定観客に私は含まれていない。