イスラム教徒用清浄食品に見る数学的無理解(後藤絵美東大准教授)

東大新聞に『全ての人が心地良い空間へ ムスリムのためのハラル認証制度を考える』と言う記事が出た(http://www.todaishimbun.org/halal_20191019/)。

取材は米原有里さんとなっている。

 

記事によれば、

<食事に関しても人によって厳密さは異なり、飲酒してもムスリムと名乗る人もいれば、肉は定められた方法で処理されたものしか食べない人もいる。>

として、次を主張する。

<しかし、ハラル認証はある一つの基準を作り、それに沿わないものを排除することで、イスラムを一つのイメージの中で標準化してしまっている。>

これを次のように繰り返し、強調している。

<「多様性や流動性のあるイスラムとは違う方向のものになっています」。後藤絵美准教授は、安易にハラル産業に介入することに警鐘を鳴らす。「固定的なイメージに標準化されたイスラム教の下では、食べられるものを巡ってムスリム同士が分断することも起こり得ます」>

 

後藤さんは頭が良くないように見える。少なくとも集合論の基礎すら身についていないようだ。

 

幸にして日本には、偏狭である宗教=イスラム教に対応した食堂は少ない。

少ない食堂には、

酒を飲むイスラム教徒や、

定められた方法で処理された肉しか食べないイスラム教徒や、

定められた方法で処理されていない肉も食べるイスラム教徒や、

鱗が無い魚も食べるイスラム教徒や、

豚肉を食べるイスラム教徒などがやってくる。

では、食堂はどんな料理を提供すれば良いのか?

流石に、豚肉や、定められた方法で処理されていない肉や、烏賊、章魚、鰻、栄螺の壺焼き、ドイツや支那の血入りのソーセージしか出さなかったらまずいだろう。となれば、どんなイスラム教徒でも食べられる物を出すしかない。

言い換えるなら、イスラム教徒Aさんが食べられるものの集合、Bさんが食べられるものの集合….、Zさんが食べられるものの集合の積集合を出すしかない。

その集合がどんどん厳しくなるハラール認証で認められた食品なのだ。

 

以上から絵美ちゃんの次の主張も根拠薄弱だ。

<「固定的なイメージに標準化されたイスラム教の下では、食べられるものを巡ってムスリム同士が分断することも起こり得ます」>

 

少ないイスラム教徒むけ食堂で「多様な」イスラム教徒が食事をすればイスラム教徒同士の分断は起こらないと思うが?>絵美ちゃん

 

そもそも、東大新聞タイトルの<全ての人が心地良い空間へ>は実現可能なのか?

ブラッドソーセージを喰らう人の隣ではイスラム教徒は居心地が悪かろう。

焼き魚の味を知ったイスラム教徒がちらちら横目で見る中で、隣で鰻重を食べても美味しくは無いのだが。